LOGIN会場の視線が、扉へ流れた。
黒いスーツの男が立っていた。 背が高い、というだけなら他にもいる。財界のパーティーには、見栄えのする人間はいくらでも集まる。けれど、その人は入ってきただけで、場の温度を一段下げた。 鷹宮征臣。 誰かが小さく名前を口にした。 鷹宮ホールディングスの副社長。二十八歳。冷たい、容赦がない、取引で笑わない。噂だけなら何度も聞いたことがある。 本人を間近で見るのは、初めてだった。 征臣は会場のざわめきを気にする様子もなく、まっすぐこちらへ歩いてくる。磨かれた靴音が、赤い絨毯の上で妙に乾いて聞こえた。 莉々花の指が、私の手前で止まっている。 さっきまで泣きそうに震えていたその指は、今は別の理由で震えていた。 「鷹宮様……来てくださったんですね」 莉々花の声は、私が聞いたことのないほど細かった。 甘える時の声ではない。泣いて許されようとする声でもない。ずっと欲しかったものを、急に目の前に置かれた子どもの声だ。 悠真の腕を掴んだまま、莉々花は征臣だけを見ている。 その目は、婚約者を見る目ではなかった。壇上で祝福される女の目でもない。もっと露骨で、もっと飢えていた。昔、莉々花がショーケースの前で限定品の人形を見ていた時と同じ目。欲しい。どうしても欲しい。自分のものにならないなら、誰かの手から落としてでも欲しい。 悠真の横顔が硬くなる。彼もようやく気づいたのだろう。莉々花が自分を選んだのではなく、自分を踏み台にして別の誰かへ届こうとしていることに。 悠真が、その視線に気づいた。 彼の顔から、婚約者らしい柔らかさが少しずつ消えていく。 今さら何を傷ついているのだろう、と思った。けれど、そんな感想が浮かぶくらいには、まだ私は冷静らしい。 征臣は壇上に上がらなかった。 赤い絨毯の途中で足を止め、まず私の左手を見た。母の指輪。その次に、莉々花の伸ばしかけた指。 最後に、悠真へ視線を移す。 「有馬さん」 「鷹宮副社長。これは、白鳥家と有馬家の内々のことで――」 「その説明は求めていない」 短い一言で、悠真の声が止まった。 父が硬い顔で近づいてくる。 「鷹宮君、突然どういうつもりだ。今日は白鳥家の大切な――」 「白鳥家の大切な席で、白鳥澪さんの顔を人前で潰しているように見えるが」 父の口が閉じた。 名前を呼ばれた瞬間、背中の奥が小さく揺れた。 白鳥澪さん。 今日この会場で、私を婚約者として扱った人はまだ一人もいない。名前を正しく置かれただけで、こんなに息がしやすくなるとは思わなかった。 「お姉様は、誤解しているだけなんです。莉々花、誰も傷つけたくなくて」 莉々花が慌てて言った。 悠真の腕にしがみついたまま、征臣へ向けて微笑む。涙の膜を張った目。震える睫毛。いつもの形なのに、少し雑だった。 「私、鷹宮様にもいつかご挨拶したいと思っていて……あの、温室でお会いした日のことも」 温室。 その言葉に、征臣の眉がかすかに動いた。 莉々花はそれを見逃さなかったらしい。ぱっと顔を明るくする。 「覚えていらっしゃいますよね? 小さい頃、莉々花が――」 「あなたは、あの温室にいなかった」 その一言は、怒鳴り声より鋭かった。莉々花の作った涙の膜に、細い亀裂が入る。会場の人々は意味を知らない。私も知らない。けれど、莉々花だけが知っている顔をした。自分の盗んだ言葉が、本当の持ち主の前で音を立てて崩れた顔だった。 「い、いました。莉々花、確かに……あの日、白い花が咲いていて」 「白い花は咲いていなかった」 征臣は短く否定した。莉々花の唇が震える。彼女は次の嘘を探していた。けれど、泣けば許される相手ではないと分かったのだろう。涙が落ちる前に、目の奥が焦った。 瀬里奈さんが小さく息を吸う。父がその気配に気づき、彼女へ目をやった。ほんの一瞬の視線だった。けれど、そこには打ち合わせ済みの何かがあった。莉々花は一人で嘘をついたのではない。そう思わせるには十分だった。 会場の音が、一瞬で薄くなった。 莉々花の笑顔が止まる。 泣きそうな顔でも、傷ついた顔でもない。台本の途中で照明を落とされた役者の顔だった。 「え……?」 「少なくとも、私が覚えている少女は、あなたではない」 征臣の声は低かった。責めているのではない。ただ、そこにあった嘘の布を一枚剥がす声だった。 責めているのではない。ただ事実を置いただけの声だ。だから余計に、逃げ場がなかった。 悠真の手が、莉々花の腰から離れかけた。 莉々花は慌てて掴み直す。けれど視線は、やはり征臣から離れない。 「そんな……私、ずっと、ずっと……鷹宮様のことを」 言いかけて、莉々花は息を呑んだ。 悠真が彼女を見ていた。 婚約披露の場で、自分の婚約者が別の男へ向けて「ずっと」と言った。その意味に、遅れて気づいた顔だった。 「莉々花」 悠真の声がかすれる。 「君は……僕と婚約したかったんじゃないのか」 悠真の問いは、情けないほど遅かった。婚約者を差し替えた男が、差し替えられた先で自分も選ばれていなかったことに傷ついている。その顔を見ても、胸は痛まなかった。痛むほどの場所は、さっきまでに使い切ってしまったのかもしれない。 「悠真さんは、優しいから。莉々花を守ってくれるって思ったの」 莉々花は言い訳を探すように笑った。優しいから。守ってくれるから。そこに、好きだから、はなかった。悠真の顔色が一段落ちる。会場の端で、誰かが小さく「あら」と漏らした。 莉々花の指が、悠真の袖を握り潰した。 「違うの、悠真さん。今のは、そういう意味じゃなくて」 そういう意味ではない。 では、どういう意味だったのだろう。 会場のあちこちで、視線が揺れる。祝福の拍手をしていた人たちが、今は誰を見るべきか迷っている。 莉々花は初めて、可哀想な妹としてではなく、二人の男の間で言葉を失った少女として見られていた。 征臣は、その混乱には興味がないようだった。 彼は私の前で足を止める。 近い。 黒いスーツの袖口から、銀のカフスが見えた。余計な装飾のない、冷たい光。 「白鳥澪さん」 「……はい」 返事は、喉の手前で一度ひっかかってから出た。 征臣は周囲を見ない。莉々花の涙にも、悠真の戸惑いにも、父の怒りにも反応しない。 私だけを見ていた。 それが救いなのか、別の刃なのか、まだ分からない。 征臣が片膝をついた。 会場の誰かが、グラスを落とした。割れる音が遅れて響く。 白いドレスの莉々花が、悠真の腕を掴んだまま息を止めた。翌週の火曜日、明日灯ネットワークとの連携条件を決める打ち合わせが開かれた。 貸会議室には、柏木志穂さんと先方の担当者、こちらからは私と藤崎さん、そして法務や運営の確認役として征臣と相沢さんが同席した。 机の上に置かれた協定書を前に、私はこれだけは譲れないと決めてきた四つの条件を柏木さんの前へ差し出した。「連携を始めるにあたって、私たちの基金から四つのお約束を書面でお渡しします」 私は少し緊張しながらも、用紙の項目を順に指で辿った。「一つ目は、奨学生の名前を外部へ出さないこと。二つ目は、取材や顔写真を支援の条件にしないこと。三つ目は、広報に協力するかどうかを本人が自由に決められ、断っても支援に影響しないこと。そして四つ目は、情報の扱いを外部の監査でも確認することです」 柏木さんは条件書に目を通し、ボールペンの背を軽く机に当てた。「四つとも、原則として同意いたします。ただ、白鳥代表。先日もお話しした通り、寄付をしてくださる企業や個人へは、活動の報告が必要です。こちらの二種類の見本をご覧ください」 先方の担当者が配ったのは、二つの報告書の見本だった。 一つは『様式A』と書かれた集計タイプで、支援した人数や専攻分野の内訳、住居相談の件数だけを数字とグラフでまとめたもの。もう一つは『様式B』と書かれた個別紹介タイプで、名前は伏せているものの、どんな家庭事情の子がどうやって進学したかを短い物語のように紹介する欄が設けられていた。「私たちの基金としてお認めできるのは、数字だけをまとめたこちらの様式Aだけです」 私は迷わず様式Aの用紙に指を置いた。「様式Bのように一人ひとりの事情を書くと、名前を伏せても、学部や家族のこと、応募のいきさつから分かってしまう人がいます」 私は様式Bの見本をそっと脇へ寄せた。「広報に使うことについて、ご本人から明確な同意をもらわない限り、様式Bは出さないでください。案が届いても、私たちの確認なしに公開しないことを、書面に残していただきたいんです」 柏木さんは少しだけ考え込むように目を細めたが、やがて頷いた。「分かりました。今はまだ様式Bの具体的な原稿はありま
遥さんは袖口から指を離し、机の上で自分の手をぎゅっと握った。「本当は、家を出たかったんです。お母さんは優しいけど、食事も行き先も、就職先まで一緒に決めたがるから……苦しくて」 あの日、進学前の面談室で、彼女が私だけに打ち明けた秘密だった。『本当は、家を出たいんです』『お母さんには言わないで』。その言葉は今も、私の鍵つき棚にある面談票に『本人の希望により詳細非公開』という一行だけで守られている。「あの面談の時、白鳥さんに『お母さんには言わないで』ってお願いしましたよね。今も、お母さんは私が看護師になるためにやむを得ず県外へ出たと思っています。自分が嫌がられて家を出たなんて知ったら、お母さん、絶対に傷つくから」「はい。あの時の話は、お母様にも、ほかの方にも伝えていません。面談票にも、詳しい理由は書いていません」 私はまっすぐに遥さんの目を見て答え、手元の仮名ケース票の見本を彼女の前へ開いた。「明日灯ネットワークには、住居の相談や研修先の紹介をお願いする予定です。先方が手続きを進められるよう、管理番号を付けた実務票を渡してもいいでしょうか」 私は実務票と同意書を並べ、項目を一つずつ示した。母親から問い合わせがあった場合の扱いが、ほかの学生と少し違う。勝手に支援を取り消されたり、居場所を答えられたりしては困る。そのための注意書きも、どこまで先方へ伝えるべきか迷っていた。「大学と住まいの調整には、進学先の分野と転居の状況が必要です。それから、お母様から支援を止めてほしいと連絡があっても、あなたに確認せず手続きを変えないよう、以前の辞退相談と継続の経緯を担当者にだけ伝えたいんです。これは連絡方法を間違えないためで、広報には使わせません。どう思いますか」 保護者への対応という目的を超えて、細かな家庭事情まで渡すつもりはなかった。それでも、本人が望まないなら別の運用を考える。私は用紙から手を離し、遥さんが読み終えるのを待った。 遥さんは用紙を真剣に読み返し、頷いた。「住まいの手続きをする人には、そこまで伝えて大丈夫です。お母さんから勝手に取り消されるのも困りますし。でも、ほかの人に見せないでください。私がお母さんから
私は決裁用紙を引き寄せ、システムが整うまでの仮の手順と六月末の期限、そして万が一危ない原稿が来た時は私の判断で差し戻すことを自分の字で書き込んだ。今すぐ助けが必要な子たちの手を離さないために、書面で二重の歯止めをかけておくしかなかった。「承知いたしました。柏木代表のところは実績も豊富ですし、書面で指示を出せばきちんと対応してくださるはずです。私の方で送付フローを整えておきますね」 藤崎さんは頼もしく頷き、書類を抱えて自分のデスクへ戻っていった。 その週の木曜日、午後の面談室で奨学生を待っていると、控えめなノックの音がした。 入ってきたのは小宮遥さんだった。春から看護系大学に通い始めた十八歳。まだ高校生だった頃、面談室で制服の袖をいじっていた姿を覚えている。「こんにちは、白鳥さん。お時間いただいてすみません」「こんにちは、小宮さん。どうぞ、好きな方の椅子に座ってくださいね。大学の授業は、少し慣れましたか」 私が温かい麦茶のカップを置くと、遥さんは入口に近い椅子に腰を下ろし、少しだけ肩の力を抜いて微笑んだ。「はい。解剖学の教科書がすごく重くてびっくりしましたけど、毎日楽しいです。基金の奨学金のおかげで、教材も全部揃えられました」 基金の正式な支援台帳には、小宮遥さんの氏名と連絡先を記録している。今回、提携先へ渡すのは管理番号を付けた仮名の実務票だけだ。その票に載せる内容も、遥さんに確認してもらう。本人が同意したからといって、何でも渡していいわけではない。「今日は、明日灯ネットワークとの連携で使える、学生向けの住居・生活相談と病院実習の情報について、小宮さんの希望を聞いておきたかったんです」 私が説明用の用紙を広げると、遥さんの指先が、無意識にカーディガンの袖口へ触れた。高校生の頃からの緊張した時の癖だけれど、以前よりは動きが小さい。「お母様からも連絡がありました。大学生活を心配なさっているようですが、面談内容はお伝えしていません。小宮さんは、今後の連絡をどうしたいですか」 遥さんの母親――小宮美和さんは、進学前に基金へ『奨学生候補辞退のご相談』というメールを送ってきた保護者その人だった。 母子
月曜日の朝、基金の事務室には新しい机が一つ増え、新しく採用した事務局員の藤崎結衣さんが着任した。 二十七歳になる藤崎さんは、以前は中規模の財団で助成金の精算や報告書作成を担当していた実務経験者で、黒髪をきっちりと束ねた仕事のできそうな女性だった。「本日よりお世話になります、藤崎結衣です。報告書の整理や外部との連絡を担当いたします。よろしくお願いいたします、白鳥代表」「よろしくお願いします、藤崎さん。わからないことがあれば、いつでも聞いてくださいね」「代表」と改まって呼ばれることに、私はまだ少しだけ気恥ずかしさを感じていた。それでも、山積みになった申請書類や外とのやり取りを前にすれば、彼女の存在は本当に心強い。 藤崎さんは初日から驚くほどの速さで仕事を覚えていった。少し早口でテキパキと書類を仕分け、昼過ぎには早速、明日灯ネットワークとの連携手順で気になる点をメモにして私の机へ持ってきた。「代表、明日灯ネットワーク様との共同事業について、一つ確認してもよろしいでしょうか」 藤崎さんは手元の手順書を指差した。「外向けの活動報告を出す際、うちの基金と先方の両方が画面上でOKを出さない限り配信できない『二重ロック』の仕組みが、まだ完成していないんです」 藤崎さんが示したのは、先方の配信システムと私たちの事務室のやり取りをまとめた図だった。「システムの工事が終わるのを待つと、連携を始められるのが夏以降になってしまいます。そうすると、この春に入学したばかりの奨学生への住居相談や研修紹介もすべて遅れてしまいますが、どういたしましょうか」「夏まで待つと、今住まいやアルバイトで困っている子たちの相談に間に合いませんね……」 私は手順書と、手元の奨学生たちの面談予定表を見比べた。 地方から出てきたばかりの学生たちにとって、安全な学生マンションや病院実習の窓口は今すぐ必要な助けになる。けれど同時に、佐伯さんから言われた「手続きのほころび」という言葉も胸の奥に引っかかっていた。「藤崎さん。その二重ロックが六月末に完成するまでの間、仮のルールとして、外へ出す原稿は必ず事前にメールと書面でこちら
最初のキスは、確かめるように柔らかかった。けれど、私が彼の肩口の布を軽く握ると、彼の息が深くなり、もう一度重なった唇に熱がこもった。唇の端から頬へ、それから耳の下へと彼の唇が移動するたび、胸元の銀鈴が二人の間でちり、と小さく鳴る。 うなじに回された彼の大きな手のひらが熱く、指先が髪の生え際をゆっくりと撫でた。「……くすぐったいです」 息の合間に漏らすと、征臣が私の耳元で低く息を吐いた。「君が先にボタンを外したんだろう」「一つだけです」「一つでも、俺には十分だ」 耳たぶのすぐ下に唇が触れ、背中を甘い緊張が駆け上がる。彼の襟元へ差し込んだ私の指先にも、普段の冷静な顔からは想像できないほど速い鼓動が伝わってきた。自分だけが緊張しているのではないと分かると、胸の奥がじんわりと温かくなる。 もう一度、さっきより長いキスを交わしたあと、征臣が少しだけ顔を離して私の目を見た。「寝室へ行こうか」 同意を求める静かな声に、私は言葉の代わりに頷き、彼のシャツの袖口を軽く引いた。 並んで立ち上がり、廊下の灯りを消して寝室へ入る。ベッドサイドの小さなランプだけが、白いシーツに淡い琥珀色の影を落としていた。 彼の腕が再び私の背中を包み、シーツの上へゆっくりと重なる。 冷たい場所などどこにもないみたいに、彼の指先が私の頬から肩へ滑り、外されたボタンの隙間から互いの体温が混じり合っていく。 ランプの灯りがスイッチの音とともに落ち、暗がりの中で重なる呼吸と、肌に触れる確かな熱だけが、夜の静けさの中へ溶けていった。 翌朝、カーテンの隙間から差し込む白い光で目を覚ますと、隣で征臣がすでに目を開けていた。 掛け布団の下で、彼の指が私の髪先をそっと弄んでいる。目が合うと、彼は一瞬だけ気まずそうに視線を逸らし、すぐに私の額へ短く口づけた。「おはよう。……よく眠れたか」「おはようございます。はい、すごく」 起き上がろうとして、自分の肩口から彼の大きめのシャツが滑り落ちそうになり、慌てて布団を押さえる。昨夜、
その週末は、婚約を承諾してから初めて迎える、予定のない休日だった。 土曜日の夕方、私は征臣と一緒にスーパーへ寄り、鷹宮邸のキッチンではなく、彼が都心に持っているマンションの部屋で夕食を作った。高層階にあるその部屋は、白鳥邸や鷹宮の本邸のように使用人の気配がなく、二人だけで過ごす時に使うようになっていた。「鶏肉のトマト煮込みと、サラダでいいですか」 エプロンを結んで尋ねると、シャツの袖を捲った征臣がまな板の前に立った。「ああ。野菜はどのくらいの大きさに切る」「一口大でお願いします。……前より包丁の手つき、慣れましたね」「君の横で何度も見ていれば、少しは覚える」 鍋の中でトマトソースが小さく煮立つ匂いと、オリーブオイルの香りがキッチンに広がる。食事を終えて食器を片づけたあと、私たちはリビングのソファへ並んで腰を下ろした。 テーブルの上には、甘くない温かい紅茶が二つ。 いつもなら、どちらからともなく翌週のスケジュールや基金の書類の話が出るところだった。現に、征臣がスマートフォンに届いた通知を一瞥し、何か言いかけて口を開きかけた。「今日は、仕事の話をしない約束ですよ」 私が先に言うと、征臣の指が止まった。「……そうだったな。悪い、癖だ」 彼は端末の画面を伏せ、テーブルの端へ置いた。それからソファの背もたれに肩を預け、少し照れたように自分の首元へ手をやる。自宅に戻ってからネクタイは外していたものの、白いシャツの第一ボタンはまだ留まったままだった。 カップを置いた私は、少しだけ迷ってから、ソファの上で膝をずらして彼の隣へ距離を詰めた。「征臣さん」「何だ」 彼がこちらを向いた瞬間、私は右手を伸ばし、彼のシャツの襟元に触れた。 指先が鎖骨の上の布地に触れ、そのまま一番上のボタンへかかる。征臣の呼吸が、ぴたりと止まった。 火傷の跡が気になって、触れられるだけで身構えていた頃もあった。そんな自分が今は、彼のシャツのボタンに手をかけている。征臣がこちらを見つめているのに、指を離したくなかった。







