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第3話 妹が見ていた男

مؤلف: 花柳響
last update تاريخ النشر: 2026-07-02 00:57:09

 会場の視線が、扉へ流れた。

 黒いスーツの男が立っていた。

 背が高い、というだけなら他にもいる。財界のパーティーには、見栄えのする人間はいくらでも集まる。けれど、その人は入ってきただけで、場の温度を一段下げた。

 鷹宮征臣。

 誰かが小さく名前を口にした。

 鷹宮ホールディングスの副社長。二十八歳。冷たい、容赦がない、取引で笑わない。噂だけなら何度も聞いたことがある。

 本人を間近で見るのは、初めてだった。

 征臣は会場のざわめきを気にする様子もなく、まっすぐこちらへ歩いてくる。磨かれた靴音が、赤い絨毯の上で妙に乾いて聞こえた。

 莉々花の指が、私の手前で止まっている。

 さっきまで泣きそうに震えていたその指は、今は別の理由で震えていた。

「鷹宮様……来てくださったんですね」

 莉々花の声は、私が聞いたことのないほど細かった。

 甘える時の声ではない。泣いて許されようとする声でもない。ずっと欲しかったものを、急に目の前に置かれた子どもの声だ。

 悠真の腕を掴んだまま、莉々花は征臣だけを見ている。

 その目は、婚約者を見る目ではなかった。壇上で祝福される女の目でもない。もっと露骨で、もっと飢えていた。昔、莉々花がショーケースの前で限定品の人形を見ていた時と同じ目。欲しい。どうしても欲しい。自分のものにならないなら、誰かの手から落としてでも欲しい。

 悠真の横顔が硬くなる。彼もようやく気づいたのだろう。莉々花が自分を選んだのではなく、自分を踏み台にして別の誰かへ届こうとしていることに。

 悠真が、その視線に気づいた。

 彼の顔から、婚約者らしい柔らかさが少しずつ消えていく。

 今さら何を傷ついているのだろう、と思った。けれど、そんな感想が浮かぶくらいには、まだ私は冷静らしい。

 征臣は壇上に上がらなかった。

 赤い絨毯の途中で足を止め、まず私の左手を見た。母の指輪。その次に、莉々花の伸ばしかけた指。

 最後に、悠真へ視線を移す。

「有馬さん」

「鷹宮副社長。これは、白鳥家と有馬家の内々のことで――」

「その説明は求めていない」

 短い一言で、悠真の声が止まった。

 父が硬い顔で近づいてくる。

「鷹宮君、突然どういうつもりだ。今日は白鳥家の大切な――」

「白鳥家の大切な席で、白鳥澪さんの顔を人前で潰しているように見えるが」

 父の口が閉じた。

 名前を呼ばれた瞬間、背中の奥が小さく揺れた。

 白鳥澪さん。

 今日この会場で、私を婚約者として扱った人はまだ一人もいない。名前を正しく置かれただけで、こんなに息がしやすくなるとは思わなかった。

「お姉様は、誤解しているだけなんです。莉々花、誰も傷つけたくなくて」

 莉々花が慌てて言った。

 悠真の腕にしがみついたまま、征臣へ向けて微笑む。涙の膜を張った目。震える睫毛。いつもの形なのに、少し雑だった。

「私、鷹宮様にもいつかご挨拶したいと思っていて……あの、温室でお会いした日のことも」

 温室。

 その言葉に、征臣の眉がかすかに動いた。

 莉々花はそれを見逃さなかったらしい。ぱっと顔を明るくする。

「覚えていらっしゃいますよね? 小さい頃、莉々花が――」

「あなたは、あの温室にいなかった」

 その一言は、怒鳴り声より鋭かった。莉々花の作った涙の膜に、細い亀裂が入る。会場の人々は意味を知らない。私も知らない。けれど、莉々花だけが知っている顔をした。自分の盗んだ言葉が、本当の持ち主の前で音を立てて崩れた顔だった。

「い、いました。莉々花、確かに……あの日、白い花が咲いていて」

「白い花は咲いていなかった」

 征臣は短く否定した。莉々花の唇が震える。彼女は次の嘘を探していた。けれど、泣けば許される相手ではないと分かったのだろう。涙が落ちる前に、目の奥が焦った。

 瀬里奈さんが小さく息を吸う。父がその気配に気づき、彼女へ目をやった。ほんの一瞬の視線だった。けれど、そこには打ち合わせ済みの何かがあった。莉々花は一人で嘘をついたのではない。そう思わせるには十分だった。

 会場の音が、一瞬で薄くなった。

 莉々花の笑顔が止まる。

 泣きそうな顔でも、傷ついた顔でもない。台本の途中で照明を落とされた役者の顔だった。

「え……?」

「少なくとも、私が覚えている少女は、あなたではない」

 征臣の声は低かった。責めているのではない。ただ、そこにあった嘘の布を一枚剥がす声だった。

 責めているのではない。ただ事実を置いただけの声だ。だから余計に、逃げ場がなかった。

 悠真の手が、莉々花の腰から離れかけた。

 莉々花は慌てて掴み直す。けれど視線は、やはり征臣から離れない。

「そんな……私、ずっと、ずっと……鷹宮様のことを」

 言いかけて、莉々花は息を呑んだ。

 悠真が彼女を見ていた。

 婚約披露の場で、自分の婚約者が別の男へ向けて「ずっと」と言った。その意味に、遅れて気づいた顔だった。

「莉々花」

 悠真の声がかすれる。

「君は……僕と婚約したかったんじゃないのか」

 悠真の問いは、情けないほど遅かった。婚約者を差し替えた男が、差し替えられた先で自分も選ばれていなかったことに傷ついている。その顔を見ても、胸は痛まなかった。痛むほどの場所は、さっきまでに使い切ってしまったのかもしれない。

「悠真さんは、優しいから。莉々花を守ってくれるって思ったの」

 莉々花は言い訳を探すように笑った。優しいから。守ってくれるから。そこに、好きだから、はなかった。悠真の顔色が一段落ちる。会場の端で、誰かが小さく「あら」と漏らした。

 莉々花の指が、悠真の袖を握り潰した。

「違うの、悠真さん。今のは、そういう意味じゃなくて」

 そういう意味ではない。

 では、どういう意味だったのだろう。

 会場のあちこちで、視線が揺れる。祝福の拍手をしていた人たちが、今は誰を見るべきか迷っている。

 莉々花は初めて、可哀想な妹としてではなく、二人の男の間で言葉を失った少女として見られていた。

 征臣は、その混乱には興味がないようだった。

 彼は私の前で足を止める。

 近い。

 黒いスーツの袖口から、銀のカフスが見えた。余計な装飾のない、冷たい光。

「白鳥澪さん」

「……はい」

 返事は、喉の手前で一度ひっかかってから出た。

 征臣は周囲を見ない。莉々花の涙にも、悠真の戸惑いにも、父の怒りにも反応しない。

 私だけを見ていた。

 それが救いなのか、別の刃なのか、まだ分からない。

 征臣が片膝をついた。

 会場の誰かが、グラスを落とした。割れる音が遅れて響く。

 白いドレスの莉々花が、悠真の腕を掴んだまま息を止めた。

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  • 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた   第103話 告発状の三つの名

     画面に並ぶ二つの宛先を一つずつ追った。告発状は完成し、添付ファイルも揃っている。それでも、送信日時だけが空白だった。 メールの下書きには、添付予定のファイル名が残っていた。 内容証明案。送金一覧。診療記録照合表。寄付金流用疑義。 母の生活感とは違う、硬い名前ばかりだった。けれど、ファイルの並びには妙な几帳面さがある。日付順。相手先別。修正済みのものには小さく済とつけてある。 母らしい、と思った。 台所の保存容器にも、あの人は同じように日付を書いた。冷蔵庫の中の味噌まで、いつ開けたものか分かるようにしていた。あの癖が、こんな場所にも残っている。 私はファイルを一つ開いた。 内容証明郵便の差出記録。 画面の中ほどで、指が止まる。「差し止め……」 発送直前、代理人による受領扱い。 その下に、署名の画像が貼られていた。 白鳥清隆。 父の名前だった。 画面の白さだけが、目に痛かった。 瞬きをしても消えない。 胸の中が一瞬で静かになる。驚きも怒りも、すぐには来ない。ただ、耳の奥で診療所の蛍光灯が低く鳴っていた。 私は画面に近づいた。 筆跡は見慣れている。白鳥家の書類に何度も代筆させられたから、父がどう線を払うかまで覚えている。 白の最後が、少し跳ねる。 鳥の横線は、いつも右下がりになる。 同じだった。「父が、受け取ったんですね」 口にしたはずの声が、遠くから聞こえた。 征臣は画面を見ていた。否定しない。慰めもしない。「書類上は、そう見える」 慎重な言い方だった。 断定しないのは、私のためではない。証拠のためだ。分かっている。分かっているのに、今だけは少し腹立たしかった。「そう見える、というだけですか」「澪」「まだ決めつけられない。……頭では、そう思っています」 言ったあと、唇を噛みそうになった。八つ当たりだ。 征臣は受け止めたまま、黙って

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